どさんこカメラ

北海道各地で撮った写真を掲載します。

三毛別羆事件から100年。ヒグマについて考える

100年前のちょうど今ごろ、北海道の三毛別(さんけべつ )で日本史上最悪の獣害

「三毛別羆(ヒグマ)事件」が起こりました。

慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 (文春文庫)

ヒグマが開拓地の村を連日にわたり襲撃し、7名もの村人を食い殺し、

3名が重傷を負った事件です。

これほどの犠牲者を出した獣害は日本では類を見ません。かなりひどい 内容なので、詳細が知りたい人はをウィキペでどうぞ。この記事では事件の残虐性についてはあまり触れません。

さて、この事件はその凄惨な現場から、ヒグマの残忍性やグロテスクな話題性が強調されがちですが、重要なのはそっちじゃないのはお分かりと思います。

痛ましい事件ですが、「ヒグマと人間」という北海道に住んでいれば、時代が移ろうと環境が変わろうと避けられないテーマを含んでいるのです。

 

100年前に何が起こったのか、ちょっと事件の経緯を見てみましょう

 

事件の経緯

1915年11月

開拓地である苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町古丹別)

ある日、村のトウモロコシ畑がヒグマに食い荒らされているのが見つかる。

村人は農作業にかかせない馬が襲われなかった事にほっとし、マタギ(猟師)にヒグマ駆除を依頼。

待ち構えていたマタギは巨大なヒグマを発見し、発砲するも駆除に失敗する。

 

12月9日

同村の太田家。男性が農作業から一時帰宅したところ、この家の少年が獣に食い殺されていた。また、床に血痕を残し、内縁の妻が行方不明になっていた。

床に残された足跡はヒグマのものだった。

窓が破られていて、ヒグマはここから侵入したようだった。窓際にはトウモロコシが干してあったため、 11月にトウモロコシを食い荒らした巨大なヒグマの仕業だと判明する。

この日、内縁の妻の行方は分からず。

 

12月10日

村の男たちは捜索隊を編成し森に入る。森の中で巨大なヒグマに遭遇するが、撃ち損ねる。

ヒグマは逃走。 雪の下から無残な姿になった内縁の妻が発見される。

夜になり、太田家では犠牲になった少年、内縁の妻の2名の通夜が営まれる。

通夜には9名が参列した。 ところが突如、大きな音が響き渡り、通夜の会場に巨大なヒグマが壁を突き破って乱入し大混乱となる。人々は梁の上などに逃げ、ヒグマは姿を消したが、身の危険を感じた一同は村の下流にある明景家に避難を開始する。

明景家には子供を含む11名がすでに避難していた。

しかし、避難しようとした一行は、安全であるはずの明景家の中から人のうめき声と、恐ろしい音を聞いた。人がいるはずの明景家は真っ暗だった。

明景家の中で惨劇が起きていることは明らかだった。しかしヒグマがいるため、男たちは家の中に入ることもできない。銃を構えるも、途方に暮れる。

ややあって、巨大なヒグマが家の中から飛び出してきたが、またもや駆除に失敗。

ヒグマは山へと姿を消した。

室内では3名がヒグマによって食われており、息のあった胎児1名、噛みつかれた少年1名も後に死亡。

 

12月12日

ヒグマ討伐隊が編成されるが駆除に至らず。

被害者の遺体を餌におびき寄せるという苦肉の策をとるが失敗。

 

12月13日

討伐隊に陸軍歩兵隊が参加するが駆除に至らず。

村人は村から避難。ヒグマは無人の村を荒らしまわる。

 

12月14日

マタギの山本兵吉が巨大ヒグマを発見。銃弾2発を撃ち込み仕留める。

 

ヒグマは凶暴なの?

この事件の特異な部分は、「ヒグマの残忍さ」という一点につきます。

人を食害した行動はもちろん、民家を何度も執拗に襲撃しています。

本来ヒグマは好んで人を食べたり、理由もなく襲ったりする動物ではありません。

そんな動物がいたら北海道にはとっても住めたもんじゃありません。

三毛別事件のヒグマは、凶暴になる理由がありました。

 

よく言われている理由としては、11月に出没したことを見てもわかるように、このヒグマが冬眠に失敗した「穴もたず」だったこと。

ヒグマは冬に冬眠しますが、それに失敗し、空腹に耐えかね民家を襲った説です。

しかし最近の調査によると、冬眠しないヒグマもいるらしい。

あとの時代になっても、同じような事件が穴もたずのヒグマによって引き起こされていないことから、この説は凶暴化原因の一つではありますが、唯一の原因ではないと言えます。

 

もう一つの理由は、最初の一撃で仕留めなかった「手負いの熊」だったため凶暴化したこと。

問題のヒグマは体長3.5m、重さ340Kgという巨体。大正時代の貧弱な鉄砲ではとても貫通できない怪物です。

(ちなみに最後に巨大ヒグマを仕留めた山本平吉の銃は、村人の使っていた村田銃ではなく、日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルでした。)

それを最初に発見したトウモロコシ畑で下手に傷つけ、挙句逃がしてしまった。

 

中途半端に怪我をさせられた「手負いの熊」は狂暴になり、攻撃してきた人間を明確に「敵である」と判断します。

今でも猟師の中では「半矢(手負い)にしてしまった獣は必ず追跡して仕留める」という暗黙のルールがあるそうです。手負いの獣は何をしでかすかわからず、人間に危害が及ぶ可能性があるからです。 

 

 

 

これに加え、ヒグマは非常に頭のいい動物なので、その性格には個体差が大きいという理由があります。

だからヒグマにばったり遭遇した場合においても、明確な対処法があるわけではなく、相手がどんなヒグマなのか

(好奇心が強いか臆病か、大人か、子供の個体か、オスかメスか、などなど)

見極めて行動しなければならないと言われています。

人間でも性格が悪い人がいるように、このヒグマも生まれ持って攻撃的な性格であったという事も考えられるでしょう。正常な個体でなかった可能性も捨てきれません。

 

三毛別のヒグマが異常なまでの凶暴性を持った理由は、以上の三つの原因が考えられます。ただでさえ大きな体と腕力を持った肉食獣にこういった悪条件が重なれば、巨大な怪物になってしまうという事です。

 

しかしこれだけでは

人を喰う民家を何度も襲うという行動は説明できません。

じゃあ何でこんなことになったのか?

 

ヒグマの習性

ヒグマは獲物を土や草の下に隠す。という習性があります。

後で掘り返してもう一度食べるためです。

事件の当日、最初の犠牲者である太田氏の内縁の妻の遺体は、雪の下に埋めるように隠されていました。

この行動から、このヒグマは人間を「エサ」として認識していたことがわかります。

 

ヒグマのもう一つの習性として、一度手を付けた獲物におそろしく執着をもつ。という事があります

山でヒグマに荷物を奪われた時の鉄則で「もし自分のリュックや食料袋を奪われても絶対に取り返してはならない」というものがあります。それが自殺行為だからです。

もしそんなことをしたら、ヒグマは自分のエサを取られたと思いどこまでも追いかけてきます。

話がそれますが、1970年に北海道で起こった「福岡大ワンダーフォーゲル部ヒグマ襲撃事件」(学生3名が死亡)はヒグマにとられた食料等を学生が奪い返したため、執拗にヒグマに追跡された挙句襲われたといわれています。ヒグマは自分が捕った食料(リュック)を、学生たちに奪われたと思ったのです。

 

なので、村人が葬式をしようと遺体を引き揚げたことで、

ヒグマは「獲物を奪われた」と判断したのです。

だから遺体を追って、葬式中の太田家を襲撃するという行動に出たのでしょう。

12月10日の1軒目襲撃理由はこの辺りにありそうです。

 

獲物=人間に執着する

上述した通り、ヒグマは獲物に執着します。

そしてこの三毛別のヒグマの場合、雪の下に遺体を隠した事から、エサ=人間という「学習」があったこともわかりました。

 

本来、ヒグマは最初から人間をエサと思ってはいません。

山に入るときクマ鈴というものをつけます。人間が近づいている事を、鈴の音でヒグマに知らせるためです。人間が近くにいるとわかると、ヒグマは人間に会いたくないので、自分から避けていくといわれています。

もし人間=エサという認識がヒグマに最初からあるなら、わざわざこんな鈴はつけません。襲われるために鈴を鳴らすようなものです。

 

だから普通のヒグマなら、何かきっかけがない限り、人間=エサという図式は完成しないはずです。この「=」の間に何があったのか、事件の経緯を見ていくとわかります。

三毛別のヒグマは、事件を起こす前に民家の近くのトウモロコシ畑を食い荒らしていました。

にもかかわらず、その時村人は「馬が食われなくて良かった」くらいにしか思っていなかったのです。

トウモロコシ畑の被害は何軒も発生していたところを見ると、かなり人間への警戒心が低くなっています。

人間を恐れないヒグマは、トウモロコシ畑をあさるだけでは飽き足らず、ついに民家の軒下につるしてあったトウモロコシに手を出します。

ここから想像できるのは、

「村=エサ」→「村の近くの畑=エサ」→「畑の近くの民家=エサ」→「民家の人間=エサ」という図式が、段階的に形成されていったのではないかという事です。

この間に一度でもこの図式を分断し、ヒグマを遠ざける要因があれば防げたのかもしれません。

しかし何度も巨大ヒグマに遭遇しているにも関わらず、銃の手入れの不備等で取り逃がしている通り、村人の危機意識自体が低かった。だからこの図式がヒグマの中で完成されてしまったんですね。

村人のほとんどは開拓民で、ヒグマの生息していない地域から北海道にきました。

ヒグマの生態についてはほとんどわからない。

だから対処の仕方もわからない。危険な兆候がわからない。

それがヒグマの刷り込みを防げなかった原因にもなっていると思います。

 

人間=エサと認識した三毛別のヒグマは、人間(エサ)に執着したため、何度も民家を襲ったのです。

危機意識の低さはここでも表れていて、この家には大人が3人しかおらず、銃を持っていたのはたった1人だけでした。

 

 

 

つまり、この事件から今学べることは、

・ヒグマは食物に対しての執着が強い。

・ヒグマは本来人を捕食しないが、「人間」と「エサ」の観念が結び付くと

 人を捕食する可能性がある。

・村人や討伐隊はヒグマの知識がなかったため、危険の予知や装備ができなかった。

 

ということです。

 

 

ヒグマの生息地と人間の居住地

この事件が起こったのは大正4年。100年前といったら北海道の開拓真っ盛りの時期です。しかも事件が起こった村にはもともと住人はおらず、東北から移住して人々が住んでいたといわれています。

ヒグマの棲み処である原野を開拓するということは、知らずともヒグマの生息範囲内に侵入することとなります。

(アイヌの人々は、ヒグマと共生していましたが・・。)

じゃ今の時代は大丈夫かっていうとちょっと違う。

 

北海道は今までヒグマの生息数を2200~6500頭と推測していましたが、これは猟師への聞き取り調査で、だいたいこのくらいかな?って数字でした。

でも最近やっと科学的なデータをもとに本格的な調査をはじめ、ヒグマは北海道に

1万600頭も生息していることがわかりました。

これって人口が全員ヒグマの「町」が北海道にあるようなもんで、遭遇しないほうがおかしいのです。

 つまり

ヒグマと人間は昔も今も接触する機会があるという事。

 

でもでも、それはわかったんだけど、でも今は、家も頑丈な造りになったからヒグマは入ってこれないし、ライフルも進化したから全然ヒグマは怖くないよね?っていうと、

あれ。ちょっと違う。

 

三毛別事件から100年もたっているのに、人間の、ヒグマに対する知識は100年前の開拓民と何も変わっていない。

北海道に住んでいる自分でさえヒグマをよく知らない。生態すら学校でも教わらなかった。

道民でさえこうなんだから、観光客の人は全然わかんないんじゃないかと思う。

例えば「ヒグマは火を怖がる」というのは迷信です。三毛別の事件によって効果が無いことが裏付けられています。

(襲われた住人は火のついた薪で抵抗したが無力だった)

つまり我々現代人も、ヒグマに対する知識を持たなかったためにトウキビ畑での最初の異変を甘く見たり、村人の避難が適切にできなかった村人とおんなじ。

危険な兆候もヒグマの生態も知らないのです。

また、現代ならではの問題も出てきて、最近発生しているヒグマへの興味本位の過度な接近、餌付け行為というありえない行動があります。

そして人間とエサを関連付ける行為。

これはトウモロコシ畑が、道路に捨てられた生ごみやビニール袋に変わっただけ。

 

 

ヒグマについて知ろう。

 

ヒグマの害を避けるには、ヒグマについて知るしかありません。

まずは知識をしっかりと。ヒグマに対峙してしまった場合、明確な対処法は確立していませんが、遭遇の危険を避ける方法はたくさんあります。

ヒグマに興味が出ると、結構面白い動物だとわかります。

こんな感じの↓しっかりしたサイトの情報は役に立ちます。

ヒグマ対処法|公益財団法人 知床財団

ヒグマとのあつれきを避けるために

さいわい100年前と違って、インターネットという便利なものができたので、誰もがヒグマについて学ぶことができます。

市町村や知床財団など、信頼できるサイトがおすすめ。

 

 

山に生ごみを捨てない。食料の管理はしっかりする。

 キャンプ場の生ごみの放置、ごみのポイ捨ては、「人間」と「エサ」を近づける原因になります。生ごみでなくても、容器に食べ物の匂いがついていると寄ってきてしまいます。

自分が捨てたごみや餌が原因で、ヒグマが人を襲うなんてあまり考えたくないです。

また、キャンプや登山では食料の匂いが漏れないよう密封したり、近くに置かないことも大事。

大きな事件は小さな間違いの積み重ねで、ひとつのごみ袋が一人の人を殺す可能性があります。

ましてや野生動物に餌付けなんて論外です。「人に近づけばエサが出る」という恐ろしいアイディアをヒグマに与えます。

SNSで目立ちたい気持ちはわかりますが、ヒグマにエサをあげることは、そのヒグマか、別の人間を結果的に殺すことになります。

これは間接的な殺人です。

 

 

獲物に執着するヒグマに、「エサ」と「人間」という概念を近づけてはいけないことは、この事件から最も学ぶべきことです。

 

 

 山はヒグマのもの。遭いたくないなら入るな。

そうはいっても、僕自身も写真の仕事があるときは、クマが出そうだなーと思いつつ山には実際入るわけです。

いろいろ書きましたが、いざヒグマに遭遇したらそれまで。あとは自分と、状況次第でしょうね・・。

ヒグマが山にいるのは当たり前。ただ、人間がヒグマについて知ることで、出会う確率を低くしたり、市街地に出てくるヒグマを減らしたり出来るはずです。

 

◇クマ鈴

こっちに人間がいます!とヒグマに伝えるアイテム。川の近くなどではヒグマに音が届かない可能性があります。

ハイマウント(HIGHMOUNT) マジックベアベル 13040

◇クマスプレー。

トウガラシ等の成分が入っています。突進してきた近距離のクマに有効。遠くにいるヒグマに使っても意味がないし、風の流れによっては逆効果に。

モチヅキ(MOCHIZUKI) 熊ヨケスプレーCA230カウンターアソールト 02194

 

 ◇鉈

過去の事件を見ていくと、接近戦で抵抗できた方の生存率は高いようです。

こうなると最終手段ですが・・。

むやみに持つとおまわりさんに怒られます。

 

 

最後に、木村さんの話。

三毛別羆事件から100年たち、特番も組まれたりしていますが、事件のグロテスクな面ばかりが話題にならないことを願います。学ぶべきは「教訓」です。

 

この事件は、発生当初(大正時代)はセンセーショナルに報道されましたが、実は忘れ去られて風化寸前でした。

それこそグロテスクな見世物的報道になり、正確な資料が残されていなかったからです。

しかし1964年に林務官をしていた木村盛武という人が現地調査を行い、生き残った人の証言を集めて誌面で発表したことで、現在まで伝えられています。

木村さんの行動がなければ、三毛別羆事件は誰にも知られることなく消えていたでしょう。

 

◇木村さんの取材は「慟哭の谷」として書籍化もしています。

三毛別事件のほかに、自身のヒグマ体験やほかのヒグマ事件にも言及した濃い内容です。

読んだら寝れなくなるかもよ・・

慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 (文春文庫)

慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 (文春文庫)

 

 

木村さんは、なんとか三毛別事件を書き残そうと、生き残った人に取材を試みます。

しかし当事者からすれば、つらい体験を見ず知らずの人間に思い出せと言われるんだから、当然門前払い。怒鳴りつけられ、罵倒され、証言を得るのは大変だったようです。

 

これが仕事だったら割り切れるかもしれません。しかし木村さんは、誰かから頼まれたのではなく「ヒグマの習性をあきらかにして、二度と同じ事件をくりかえしたくない」という自分の意志のもと取材を重ねました。

そのおかげで三毛別羆事件は風化することなく、「事件」としてヒグマとの付き合い方に疑問符を投げ続けます。

本当に頭の下がることです。