どさんこカメラ

北海道各地で撮った写真を掲載します。

北海道博物館でこれが気になりました。

前回

dosanko-camera.hatenablog.com

 の続きです。

北海道博物館にやってきました。

 

 

 

◆個人的に気になった展示

まず、あると嬉しい「触れる展示」です。

やっぱ触りたいですよね、なんでも。

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これは触って持ち上げられる展示。左がクジラ、右がカイギュウの化石です。

クジラの化石は重い、でもカイギュウはもっと重い。

カイギュウというのは、今のジュゴン(体長3mくらい)みたいな生き物。ですが、このカイギュウは9mもあったそうです。こんなに大きな生き物が北海道にいたんですね。

目で見れば大きいのはわかりますが、重さを感じると、より大きさが実感できます。

 

 

こちらは触れるマンモスの歯。

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北海道でもマンモスが発掘されてるんだな。f:id:tamayoshi:20170725212156j:plain

 

 

次、「クマの木製置物」

クオリティーの高さに衝撃を受けたのが、コレ。

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この優し気な目、木の形を活かした鼻先と口、曲線的なフォルム!1000年以上前に作られたとは思えないですよね。

これが作られたオホーツク文化は紀元400年~900年頃の時代。本州では奈良、平安時代に当たります。

 

歴史に興味がある方はご存知だと思いますが、北海道には弥生文化というものがありません。大雑把に言うと、本州では

縄文文化→弥生文化→古墳(→飛鳥時代)

と移行します。

ところが北海道では、

縄文文化→続縄文文化→(オホーツク文化が混じる)→擦文文化

となります。

弥生時代というのは稲作が可能になったため発展した文化ですが、津軽海峡を挟んだ北海道では、気候が厳しかったこともあり、コメ作りができませんでした。なので、弥生文化の北限は東北で、それより北には浸透しなかったわけです。

そのかわり、本州で作られた鉄器は輸入されていたので、稲作よりも狩猟文化が盛んになります。これが続縄文文化。

と同時に、北海道は本州だけでなく北方(北海道より北のサハリンなど)との交流が強かったので、「オホーツク文化」というそれまで北海道に無かった文化が広まります。オホーツク文化を持ち込んだ人々はヒグマ・海獣信仰をもっていたので、そういった概念はアイヌ文化にも影響したようです。

 

オホーツク文化の出土品はどれもとても美しいです。

個人的にはぜひ見てほしいエリア。

 

 

 

 「どんぐりがころころするやつ」

北海道の動物紹介コーナーにあります。ハンドルを回すと、ドングリに見立てた木のボールが転がっていく仕掛け。

ドングリを通して自然を学ぶ、子供向けの展示ですね。

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 ピタゴラスイッチ的なんですが、途中で電子制御されている?らしく、ドングリ(ボール)の行きつく先が違います。

 

ドングリをカケスが隠したエンド。

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シマリスが持っていったエンド。

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僕もやってみたら「ヒグマに食べられてウンチになった」という結末でした。

大人が一人でやるとさみしいです。

 

 

あとは・・ 

展示ケースなしで見られる土器がいくつかあって良かったです。

縄文の縄目をじっくり観察。

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僕の好きな八雲町の木彫りグマもいました。かわいい。

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こっちは八雲町じゃない熊。

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開拓当初の札幌(平岸地区)

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「アッツ島」

 「アッツ島の戦い」って聞いたことあります?

第二次大戦中の戦闘なんですが、僕は恥ずかしながら、ここに来るまで知らなかったんですよ。いい歳になって。

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1943年の北海道新聞です。

アッツ島の戦いには北海道からも多くの兵士が出兵し、亡くなっています。

 

 

「アッツ島」はこの赤いとこです。(縮尺は適当なのでだいたいの位置。)

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 遠い・・・。北アメリカのアリューシャン列島の島です。

こんなところでも戦闘をしていたんですね。

 

で、このアッツ島の戦いで日本軍は玉砕したんですが、初めて日本国民に日本軍の敗北が知らされた戦いでもあるんだって。まあ、そういった意味を含めると上の新聞の意義もまた違ってきますね。

日本軍はアメリカの領土「アッツ島」と「キスカ島」を占領します。アメリカの領土を奪ってたなんて意外ですけど、この2島は1942年に日本が占領しました。

ところが、結局アメリカ軍の猛攻にあって、ついにアメリカ軍は1943年、島に上陸し、地上戦になります。

島の周囲はアメリカ軍の艦隊が取り囲み、砲弾が撃ち込まれ、多くの日本兵が銃撃に倒れました。ついには、大本営がアッツ島の奪還は無理だという判断を下します。

アッツ島に残された兵士たちは、見捨てられてしまったんですね。事実上の玉砕命令が下され、野戦病院の患者は自決。兵士たちは、捕虜になることも許されない時代です。

指揮官だった山崎保代部隊長は、負傷した300名の最後の兵を引き連れ敵陣に突撃をかけますが、全滅します。

アメリカ軍の死者約600名に対し、日本軍の死者は2,638名、生き残ったのはわずか28名と言われていますから、いかに悲惨な戦いだったかがわかります。

あとですね、アッツ島の戦いで33歳で戦死した、辰口 信夫という日本軍医。

この人は両親共に英語が話せる家庭で育って、アメリカで勉強して医師免許を取得したんだって。あとクリスチャンだった。

で、彼はアッツ島の戦いの最中に日記をつけていたんだけど、戦死した後アメリカ軍に回収されて英語に翻訳された。日記はどこかで無くなってしまい、いま日本語で読めるものは英語からの再訳らしい。

「夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。

聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。

敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」

 

アメリカを愛していたのにアメリカに殺されたという事で、向こうでも話題になったらしいです。

 

アッツ島と一緒に占領した「キスカ島」はどうなったかというと、やっぱりそこにも日本兵が取り残されていました。しかも6,000人。

ところがこちらの方は、全員玉砕・・とはいかずに、霧に紛れて日本へ密かに脱出したのです。興味のある人は調べてほしいのですが、何でこんなにラッキーなんだというくらい偶然が重なり、アメリカ軍の軍艦が島の周辺にうじゃうじゃいるにも関わらず撤退に成功した。

これはのちに東宝映画「太平洋奇跡の作戦キスカ」にもなっています。

太平洋奇跡の作戦 キスカ [東宝DVD名作セレクション]

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 最近「硫黄島からの手紙」を見たんで、日本は「負けそうになったらすぐ玉砕」みたいなイメージだったんだけど(あれはやりすぎだよね)、そうではない場合もあったんだね、キスカ島みたいに。

硫黄島からの手紙 [Blu-ray]

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キスカ島の場合は、この辺の戦力に割と余裕があったので脱出させられたんじゃないかなと思います。まあ、人命どうこうというより、鍛えた兵士も立派な武器ですから、6000名分の戦力を失うより回収しようという感じだったのでしょう。

 

同じ時に占領された2島でこうも運命が違うのは、後の世から見ればドラマチックですが、実際は悲惨なものです。

 

 

アッツ島全滅のすぐあと、1943年に札幌の中島公園で慰霊祭が行われているので、この戦いでは北海道から赴いた人が多かったのではと思います。

 

 

 

 

 

なんだか重たい話になってしまった・・

 

中空土偶(レプリカ)

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 昔っから戦ってばっかりだね。