チョコレートを巡る旅。今回は「六花亭」のホワイトチョコです。
なぜホワイトチョコをわざわざチョイスしたかというと、
日本で初めてホワイトチョコレートを発売したのが六花亭だから。
こちらが六花亭のホワイトチョコ。
おなじみ、坂本直行さんの花の絵がいいですね。
千秋庵と六花亭の意外なつながり
日本で初めてホワイトチョコレートを発売したのは北海道の六花亭というメーカーなのですが、北海道ではおなじみの菓子メーカーであります。
それとは別に北海道では誰しも知っている「千秋庵」というメーカーがあるのですが、
ホワイトチョコの誕生を知るにはこの2つのメーカーの関係から見ていかなくてはなりません。
千秋庵は「ノースマン」というお菓子などが有名な札幌の老舗メーカーです。
千秋庵に、1933年小田豊四郎という方が入社します。この方がのちの六花亭の創業者です。
もともと千秋庵は小田さんの母方の親戚が経営しており、いろんな事情があって進学を諦めた小田さんは中卒で住み込みのような形で入社し、掃除や配達などの下働きをしていました。
ところがそんななか、「帯広千秋庵」を経営していた小田さんの叔父が結核で倒れてしまいます。
帯広千秋庵はもともと経営難で、「どうせ赤字だから」という理由で小田さんに経営が任されることになりました。
帯広千秋庵の経営者となった小田さんは、経営難に陥るどころか、戦後の混乱期にあっても真摯な商品販売を貫き、次々にオリジナル商品を開発しました。
闇市に頼らず適正な価格で良い品質のお菓子を販売したことが功を奏したそうです。
今でも六花亭の定番商品であるモナカ「ひとつ鍋」も帯広千秋庵だった時代に誕生したのだとか。
ひとつ鍋は、十勝開拓時代に詠まれた「開墾の はじめは豚と ひとつ鍋」という開拓の苦労を詠んだ句に由来する名前なんですが、当時は地域の特色を出した「物語性のあるお菓子」っていうのはほとんど無かった時代でした。
このコンセプトが当たって帯広千秋庵は大成功をおさめます。
ちなみに今でも六花亭で売られている「リッチランド」等も帯広千秋庵時代にできたお菓子
ホワイトチョコレートの誕生
そんな中、1967年に小田さんは海外研修先であるスイスで、初めてホワイトチョコレートに出会います。
世界的に見ると、1930年代にはネスレがヨーロッパでホワイトチョコを発売しているし、アメリカでも1950年代には商品化されています。しかし60年代になっても日本にはまだホワイトチョコレートというものが売られていませんでした。
そんなことだから、日本にはホワイトチョコを造る機械設備も知識もない。でも小田さんは、「北海道の雪のイメージにもホワイトチョコはぴったりだ!」という事で何とか成功させたかったそうです。
そして、試行錯誤の末、1967年ついにホワイトチョコレートの製造が開始されました。
ホワイトチョコレートが六花亭を生んだ?
ところが...数々のヒット商品やホワイトチョコレートの成功とともに、親会社「千秋庵」との問題が浮上してきました。
そのきっかけはホワイトチョコレート。
ホワイトチョコレートは当初その珍しさから全く売れなかったため、なんと特許を取っていませんでした。
しかし「カニ族」のブームにより全国的にホワイトチョコブームが発生。ホワイトチョコはどんどん売れるようになっていきます。
すると小田さんの作ったホワイトチョコの偽物、類似品などがどんどん出回るようになったのです。
そんなニセモノを食べた人々から、帯広千秋庵に「こんなまずいチョコレートを売るな!」という身に覚えのない苦情が殺到するようになりました。
ここで問題なのは、「帯広千秋庵」が本物のホワイトチョコを札幌周辺で販売できなかったということです。
帯広千秋庵の本店(のれん元)に「札幌千秋庵」という店があり、札幌近郊は札幌千秋庵の販売テリトリーでした。帯広千秋庵は、札幌本店の販売テリトリーを侵すことができません。
これはのれん分け制度にある慣習のような物なのですが、のれん元とのれん分け先は、販売エリアが重ならないように特定の地域で売るよう指示することがあります。
なので、小田さんの経営していた帯広千秋庵は十勝エリア以外でのお菓子の販売は、実質禁止されていたような物でした。
交通路が発達し、旅行者が増え、もはや販売店ごとに地域をわけて経営するという習わしはそぐわない時代になっていました。
自由な販売経路と製造工場を確保するため、ついに小田さんは千秋庵にのれんを返上。1977年「六花亭」が誕生します。
※ホワイトチョコレートを流行らせたカニ族とは?
今でいうバックパッカーのことで、横型の大きなリュックを背負って旅行する姿がカニに見えたからこう呼ばれた。主に徒歩か安い電車を乗り継ぎし旅行した。1970年代、北海道へのある種の「あこがれ」をもった若きカニ族たち(暇はあるが金は無い)はぞくぞくと北の大地にやってきた。
当時カニ族の中で、「愛国から幸福行きの国鉄のチケット」と同レベルで人気だったのが「六花亭のホワイトチョコレート」で多くの類似品が出回った。
「愛国から幸福行きの国鉄のチケット」とは何か?知らない人は70年代に大学生くらいだったおじさんに聞いてみましょう。
というわけでホワイトチョコレートと六花亭は切っても切れないおはなしなのです。
六花亭の創業者小田さんは「お菓子は文化のバロメーター」という言葉を胸に、お菓子を通じて文化面や芸術面にも寄与した方です。
彼がいなければ日本での本物のホワイトチョコレートの誕生は、もう少し後になったことでしょう。