どさんこカメラ

北海道各地で撮った写真を掲載します。

「木彫り熊資料館」に行ってきた。

「前回の記事で、アンティークショップに行った時のこと。

dosanko-camera.hatenablog.com

 

素敵な木彫り熊を見つけた。

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普段の生活で、僕は木彫りの熊が好きなんですよね。言っても相手にされませんが、

ここでは言いたい。木彫り熊が大好きだ!

 

今では貰って迷惑な民芸品になってしまいましたが、昔のものは工芸的に秀でた作品がたくさんあった。まあ、北海道のアイコンになったという点でその役割は十分果たされたと思うけど。

 

さて、木彫り熊の発祥はもちろん北海道だが、その中の「八雲町」という町。

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しかも八雲町には「木彫り熊資料館」があるらしい。

ぜひ行きたい。行こう。

 

 

八雲町木彫り熊資料館

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はいここです。

どうやら八雲町郷土資料館と一緒になっている様子。

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 無料で入館できます。

 

 

若干お手洗いの香りが漂う1階。

物置感漂う雰囲気が地方の資料館らしくて素敵です。

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2階が木彫り熊資料館だそうです。「扉締まってますから開けて入ってくださいねー。電気もつけていいですからー」

 

いよいよこのフツーの扉の先が資料館ですが、

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木彫りは撮影禁止だそうなので写真は終わりです・・。

 

 

30分もあれば見終わります。実に良い展示でしたので、興味のある方はぜひ。

肝心の木彫り熊の写真がないのもあれなので、八雲町の物産館に展示してあった写真を。

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八雲町の有名な職人、茂木多喜治、柴崎重行、加藤貞夫、引間二郎の作品。

 

 

 

こちらは柴崎重行の作品。簡素化された表現が特徴。

「柴崎彫り」(面彫り)という八雲町で生まれた独自の彫り方。

繊細な表現はいくらでも追及できるけど、簡素化する方が難しいかもしれない。

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円空仏みたいだなあ。

 

これは引間二郎という割と最近の人の作品。「柴崎彫り」で彫られたもの。

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ちょうど資料館に引間さんの制作風景を撮ったDVDがあったんだけど、鉈で勢いよくバンバン割っていって、こんな形になるのが不思議だ。

 

ちなみに同じ人が違う彫り方で彫るとこうなる。

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ひとつ不満をあげるなら、八雲町内に木彫りの熊が全然売ってないってこと。

 

 

 「八雲町」と「木彫り熊」の歴史についてすこし。

 

尾張徳川家と木彫り熊。

木彫り熊は尾張徳川家無しには語れない。かつて御三家と呼ばれた尾張徳川家も、王政復古の大号令から始まる明治維新の荒波にもまれ、すっかり財政難。

特に生活に苦しんだのは下級武士でした。

これは困ったなあ、と旧尾張藩主の徳川慶勝は土地の下付を願い出て明治11年、総人員82名をはるばる名古屋から北海道へ移住させました。これが八雲町開拓の始まりです。

青松葉事件 - Wikipedia との関係も無視できませんが。

北海道の地名はほとんどがアイヌ語の発音からですが、「八雲町」はそうではありません。というのも徳川慶勝が古事記の歌「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から引用したからです。

徳川家の息のかかった町だったわけですね。

※余談になりますが彼は当時珍しかった「写真」にハマり、今では現存しない名古屋城の内部など、貴重な写真を遺した文化的なトノサマでありました。

 

 

そういうわけで、八雲町には徳川家開墾地(徳川農場)が設けられ、開拓が盛んになったわけです。

少し時代がたってから、その徳川農場に徳川義親(第19代当主、さっきとは違う人)が熊狩りのため、はるばる八雲町へ遊びに来るようになりました。

先述の慶勝は写真好きの殿さまでしたが、義親は旅行好き(ヨーロッパにも行った)ハンティングが趣味という人で、「熊狩りの殿様」、「虎狩りの殿様」なんて呼ばれていました。

非常にフランクな性格で、八雲町への財政支援はもちろんのこと、士族や農民とも親しかったと言われています。

 

そんな彼がある日言いました。

「冬は農作業が暇だから、木彫りの熊を作るのはどう?お金になるし。」 と。

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こうして始まったのが木彫り熊です。

言われた農民たちは「え なんで??」と思ったかもしれませんし、義親も単なる思い付きの発言だったかもしれません。それでもトノサマに言われちゃあ、ねえ。

 

ちなみに、これが義親が「こんなん作ったらどう?」とお手本として八雲町に送った、スイス製の木彫り熊。

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資料館にあった実物は手のひらに乗るほど小さかった。

実際、当時のスイスでは工芸品として農民の副収入になっていたし、のちに熊彫りは八雲町に「農村芸術」という形で大成しました。

 

尾張徳川家が衰退しなかったら、木彫り熊もなかったわけです。

 

 

 

雲八と磯子

さて時代が昭和になると、「八雲農民美術研究会」なるものまで発足し、熊彫りの講習会も開かれました。農民たちは日々熊彫りの研究をし、木彫り熊は八雲町に普及していったわけです。

同じ年、熊狩りの殿様・徳川義親が2頭の子熊をつかまえ、八雲町に連れ帰りました。

2頭はオスは雲八、メスは磯子と名付けられ、大切に育てられます。

スイスの木彫りと違い、八雲の木彫り熊には「毛彫り」「面彫り」「擬人化」という3つの特徴がありますが、このうちの「擬人化」に大きく貢献したのがこの2頭でした。

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熊を見たことのある人はわかると思いますが、熊は人間みたいな愛らしい動きをします。雲八と磯子もとても人懐こく、害獣であった恐ろしいヒグマのイメージより、スキーに乗ったり楽隊を編成したりと、かわいらしいイメージを八雲の作家達に与えたわけですね。

北海道 木彫り熊の考察

よく食べよく寝た2頭はころころ太っていき、それが八雲木彫り熊特有の、ごろんとした体つきになったと言われています。

木彫り熊は昭和天皇に献上され、「木彫り熊は八雲」というブランドとして確立しました。

しかし第二次世界大戦が始まると、国は国民に対して鉄の供出を命じます。雲八と磯子の「檻」も供出の対象となり、2頭は銃殺されました。

戦争により木彫りも下火になり、農民美術研究会も解散するのでした。

 

  

その後の昭和40年代の木彫り熊ブーム、そして衰退は御存じの通りです。

機械彫り、アジア産の安価な木彫り熊の輸入、スタイルの固定化によって、木彫り熊は人々の心から離れていきました。

 

 

というわけで、興味がある方は見に行ってみてください。八雲町の作家以外の作品もあります。

 

僕が好きなのは奈井江町出身の作家・堀井清司。

アンティークショップで見かけた熊と雰囲気が似ています。

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これを見かけなかったら資料館にはいかなかったろうなあ。

ブログを書いてるとそんな出会いもあります。