スキーやスノボが好きな方は「人工雪」のお世話になった事があるのではないでしょうか。
実は、人工雪を世界で初めて作ったのは日本人。
北海道大学の教授です。
雪の結晶は、天から送られた手紙である
この言葉を残したのは、中谷宇吉郎(なかや うきちろう)という物理学者。
彼は1930年代から北海道大学(北海道帝国大学)教授を務め、世界で初めて人工雪の製作に成功しました。
北海道大学キャンパスの片隅に、中谷を讃える石碑があります。
この場所にはかつて、「常時低温研究室」という建物がありました。(1978年に取り壊された)
ここで世界で初めての人工雪が誕生したのは1936年のこと。
当時の様子。写っているのは中谷氏本人です。
毛皮の防寒服と手袋をつけて結晶の撮影中。
中谷教授は石川県出身です。
せっかく北海道に赴任したし、なにか雪国でできる研究は無いかなあと思っていた矢先、アメリカでウィリアム・ベントレーが出版した雪の結晶の写真集が大人気となりました。
中谷はこの写真集をみて、日本の雪はどうだろう。と科学者らしい疑問を持ち、ベントレーみたいな写真を撮ってみようと挑戦したのが研究のきっかけでした。
ベントレーの写真は「綺麗に見せるため」もしくは「写真として売るため」に雪の結晶の細部を切り取ってしまっていましたが、中谷の登場によってはじめて雪の結晶に科学的な目が向けられたのです。
つまり最初から人工雪を作ろうとしたわけではなく、雪の結晶に魅せられたのが始まりでした。
人工雪
真ん中に毛の様なものが映っている・・
というか毛です。ウサギの毛。
結晶を作るには「何か細いもの」に結晶の核となる部分をくっつけ、それを成長させる必要がありました。
ただの繊維だと全体に霜がついてうまくいかず、木綿の糸、蜘蛛の糸、絹などと色々試した結果、ウサギのお腹の毛がベストだったそうです。
ウサギの毛は顕微鏡で見ると小さな突起があり、その1点だけに水滴が付着するので、結晶がきれいに成長するそうです。
(結果だけ書くと簡単そうに見えますが、勿論そうではありませんでした)
エッセイストとしての中谷宇吉郎
雪の結晶をよく見たことがあるでしょうか。
(雪国以外の人はあまり無いのかもしれない)
六角形が有名だけれど、ピラミッド型のもの、針の様なものと、よく見ると形は様々。
雪の結晶は上空で、核となる部分からだんだん手足を伸ばすように枝を広げ、成長します。つまり上空から地上に降りるまでの気象条件や大気の影響でその形が決定されるので、逆を言うと結晶の形を見れば、上空の気象状態を予測できます。
「雪の結晶は、天から送られた手紙であるということができる。そしてその中の文句は結晶の形及び模様という暗号で書かれているのである。」-中谷宇吉郎『雪』-
空から降ってきた結晶の形から、それが成長した上空の気象条件を推定できる。
冒頭の「雪は天から送られた手紙である」という言葉はそういう意味です。
このような文体センスからも分かるように、中谷には物理学者とは別に随筆家、エッセイストとしての顔もありました。
一般人のために分かりやすく書き下ろした随筆が多く残されています。
「専門の学者の人に読んでもらうつもりは毛頭ないので、(中略)少数の学者の研究がいかに進んでも、その研究が一般の人に普及されなければその真価を発揮したことにはならぬ。また研究というものは多くの人に諒解され、利用されて、人々の注意が集って更に新しい段階に入ることが出来るのである。」-中谷宇吉郎『雪』-
今でこそ大学教授や科学者が、一般人のためにわかりやすく解説した文書はあふれていますが、戦前の日本にそういったものは稀でした。
中谷は学者としての知識や、当時一般の人々は見ることのできなかった海外の様子を、それを求める普通の人々のために書き下ろしました。
中谷宇吉郎は61歳という若さで亡くなられましたが、
幸い現在でも著作の多くが青空文庫などで無料で読めたり、Kindleで安価で手に入ります。
「戦後」日本の描写
科学的な解説もさることながら、中谷宇吉郎のエッセイで興味深いのは、戦前、戦後直後の日本の様子がわかることでしょう。
話は少しそれますが、先日経済を専門にする職業の人と話していた時のことです。
その人に、知人が質問をしました。
「1964年に開催された東京オリンピックに比べて、2020年の東京オリンピックが期待されないのはどうしてですか」
専門家は答えました
「簡単です。以前のオリンピックの時は日本が後進国だったからです。
インフラが整い尽くされた今の日本で再びオリンピックを開催しても、何の成長も期待されないからです。」
日本が後進国?
戦争を知らない僕にとって、「戦後」とは右肩上がりの復活というイメージしかありません。
しかしそれは敗戦から数十年後の話です。敗戦直後は焼け野原、開発途上国に逆戻りしたといってもいいかもしれません。
敗戦後の日本には、オリンピックも高度成長も「できなかった」という未来も用意されていたでしょう。
今では当たり前ですが、先進国の仲間入りを果たせなかった末路も用意されていたはずです。
中谷の1940〜50年代のエッセイには、「今後の日本はどうなるかわからない」「どうせ敗戦国だから」という国内の不安、諦めが漂っています。
この時代の雰囲気は、60年代から現代までの復興の陰に隠れて、われわれがあまり意識していないかもしれません。
しかし中谷は科学者らしい考えで、読む人を諭します。
これからの科学発展や教育こそが希望であるという考えはブレることがありません。
上の2作品は短編なのですぐ読み終わると思います。
先に挙げた「アラスカ通信」は海外の様子ですが、自然科学の謎を解く人にとって、それは学者間共通の課題であり、戦争や国籍で騒ぐことが愚かであることがわかります。
また、戦時下では栄養失調という今では考えられないことも日常に起こりました。
イグアノドンの唄が何かは読めばわかりますが、亡くなった子供への想いに直接触れない文章に、胸が痛みます。
中谷も戦時中は、戦争のために霧を消す研究をしたり、ゼロ戦をニセコ山頂まで運んで機体への着氷防止の研究をしました。
さて、いまの北大総合博物館は、かつては中谷が務めた北大理学部でした。
中谷いわく、札幌で初めてのコンクリート建物だったそうです。廊下は暖房もなく寒いため、廊下に顕微鏡を出して雪を観察することもありました。
ここへは暇があると時々行くのですが、この廊下のどこかで彼が結晶と対峙していたかもと思うと、タイムスリップしたような不思議な感覚になります。