カール・レイモン
という名前を聞いて、多くの道民はソーセージを連想するのである。
それもスーパーで売っているそれではなく、デパートで売っているちょっと高級なソーセージ。結婚式の引き出物のカタログにのっているソーセージだ。
ソーセージのパッケージに描かれたハンチング帽を被ったシルエット。
彼がカール・レイモンである。
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カールレイモンのソーセージといえば函館の定番みやげでもある。
でもカール・レイモンって何したひとなん・・・?
ふと素朴な疑問がわいた僕は函館へと向かった。
観光名所「レイモンハウス元町店」
夕方に撮ったので幽霊屋敷みたいになってしまってるが、昼間はツタの絡まるしゃれた店である「レイモンハウス元町店」。今や函館の観光名所である。
店内ではソーセージやサラミなどが販売され、焼きたてのソーセージやホットドックを食べられる!(食べ損ねたので誰か食べてみてください‥)
この店は、かつてレイモンのソーセージ工場があった場所に建てられている。
店の横にはレイモンの銅像が。
ハンチングを被っていたので安心した。帽子が無かったらあやうく誰の銅像かわからないところである・・
店内にあった解説パネルによると、カール・レイモンは戦前から函館でソーセージやハム作りに励んだ職人らしい。
生まれは1894年カルルスバード(現チェコ共和国)だそうである。
カルルスバードは戦争でドイツ領になったり、はたまたチェコ領になったりとややこしい都市だが、西洋においては温泉地として有名な場所である。
蛇足だが登別にある「カルルス温泉」は、カルルスバードに泉質が近いことから(というかそれにあやかって)名付けられたくらいである。
レイモンは4代続く畜肉加工の家に生まれたそうだ。
ソーセージ作りについて地元でみっちり教育されたレイモン少年は、ベルリン、フランス、スペイン、ノルウェーに渡り修行を重ね、大手食品会社に就職したりとキャリアを磨いた。
第一次世界大戦にも出兵してるが、戦争が終わるとすぐにアメリカの一流企業へ研修に向かうという熱心さである。
親の代から決まった職業に就く運命ならば、僕など即反抗期に入ってしまいそうだが、レイモン青年のなんと勤勉であることだろう。
アメリカでの3年間の研修が終わり、ちょいと立ち寄ったのが日本である。
縁あって日本の缶詰工場からハム・ソーセージづくりの技術指導を頼まれたこともあり、しばらく日本に住むことになった。
そして赴任先である函館に向かう。
この時レイモンはまだ26歳である。
さて、函館には「勝田旅館」という旅館があった。
勝田旅館といえば、初めて函館に建てられた旅館の一派である。
この旅館で働く勝田家の長女、コウは学校で英語を学んだので英会話が堪能だった。
大正時代で英語教育とは、当時の函館はハイカラである。僕など令和の時代において6年間も英語教育を受けているが、一向に上達の気配が見えない。
勝田旅館は洋食が提供されるという事で、レイモンはここに宿泊していた。当時の西洋人にとって米と魚と葉っぱのご飯は耐え難いものがあったのだろう・・・和食が海外セレブにもてはやされるのはあと100年待たねばいけない。つまり日本食は当時の外国人にしたら病院食である。
とにかく勝田旅館はうまいステーキが食える旅館らしい!ということで泊まっていたレイモン。そこでコウと運命的に出会ったのである。
遠い異国のカルルスバードからきた男と、函館の旅館で働く女が出会うとは誰が想像できたであろう。いちばん驚いたのはご両親だろう。
もちろん結婚は大反対された。
しかも当時の日本の新聞記者はこの件について新聞のネタにするなどするし色々大変である。
仕方がないので、二人は1922年に中国 天津で駆け落ち。
レイモンの実家であるカルルスバードへ2人で住むことになった。
▼レイモンとコウ
地元でハムソーセージ店を開店。カルルスバードは温泉地ということもあり、店は盛況だった。
しかし3年たち、レイモンは突然、コウに「日本に戻ろう」と告げのだ。
もうここまでで朝ドラの子役~ヒロイン登場くらいまで作れてしまいそうな勢いだが、ここらからレイモン夫妻の函館生活がはじまるのである。
函館での生活
カルルスバードの店がせっかくうまくいってたのに日本に戻ったふたり。
当時の日本では肉を食べるという文化が浸透していないため、予想通りソーセージは全然売れなかった。喜んで食べるのは近所の子供くらいというありさまだ。
果たして僕は、日本への帰国が誤算だったとは考えない。なぜならばレイモンにはもっと大きな野望があったからだ。
それは彼が当時北海道庁に提出した、
1925年「食料と自給体制について」
1932年「食料の自給体制」
というなんだか難しそうな書類から垣間見える。北海道はまだ開拓が中途で土地を持て余していたし、日本人は加工肉を食べる文化が無かった。そこに畜産技術の普及、家畜飼育から加工まで普及させるという、北海道畜産開発プランを提案したのである。
このプランは残念ながら道庁から蹴られたが、彼は函館のみならず北海道を自分の手で畜産王国にしたかったのかもしれない。
新函館北斗駅にはレイモンの工場跡地があった
僕は新幹線をあまり利用しないのでなじみがないが、JR「新函館北斗駅」に行ったことがあるだろうか。
何もない平野に、立派な駅がポツンとあるのだ。
この広大な平野に、かつてレイモンのソーセージ工場「大野工場」があった。
新函館北斗駅を建設した際整地してしまったので、残念ながら今は大野工場の痕跡を見ることはできず、かつて工場があったこと示す案内板だけが駅前に残っている。
1927年、レイモンはやっと経営を軌道にのせ、大野村(現北斗市)に「大野工場」を開業した。
そしてなぜかミニ動物園もつくった。
ライオン、ヒグマ、サルやワシなどを飼育・・・広い土地があると動物園を作りたくなってしまうのは人のさがなのか。
当時の写真には、たくさんの日本人従業員、そして後ろに動物用の檻が見える。
このライオンは函館(もしかしたら北海道で)で初めてのライオンである。
レイモンはライオンを函館市に寄贈。二頭は「レイ子」と「猛夫」と命名された。今見るとたいへん残念なネーミングである・・・。
このミニ動物園は周囲の日本人からも大変好評で、函館のみならず色々な町から小学生たちが遠足で訪れたそうだ。
レイモンは旧満州国にも視察に訪れ、この土地が畜産に適した土地と判断。1935年から満州各地に10ヶ所の畜産試験場を開設させた。
当時の新聞では、日本と旧満州国のために一肌脱ぐドイツ人として紹介されているが、当然ながら当時の新聞にはバイアスがかかっているのでレイモン自身が旧満洲国について本当のところどう思っていたかは分からない。
当人にしてみれば、北海道で採用されなかった開発プランを、広大な土地でできるくらいにしか思っていなかったかもしれないが。
しかし数年後いよいよ日本の空気が不穏になる。寄贈されたライオンはだんだんとやせ細り、腹を空かせて死んでしまった。いよいよ日本国内の物資が不足し始めたのである。
1938年、レイモンは突然道庁に呼び出され、ハム・ソーセージの製造禁止を言い渡された。
多くの人でにぎわった「大野工場」はわずか5万円で買い取られ閉鎖。事実上の強制買収だ。
地域に愛されていた大野工場であったが、二度と復活することはなかった。
敷地内にある動物の霊を祀る獣魂碑だけは、住民の手で近くの馬頭観音の境内に移設された。
時代背景を観てみると、この時代は日本とドイツは同盟国であるし、一応ドイツ人であるレイモンが嫌がらせを受ける理由は判然としない。しかしながら戦争に向かう時代の空気が、かつて模範とし師とした外国人を、手のひらを返して毛嫌いさせたことは想像に難くないのである。
EUの旗の原型をつくったのもカール・レイモン
さてここまでで3,000字くらいになっているけどどのくらいの方がここまで読んでくれてるでしょう・・(読んでくださってる方、ありがとう)
レイモンの逸話はまだ付きなくて、EUの旗のデザインを作ったのもレイモンである。
EUで採用している旗は、正しくは「欧州旗(おうしゅうき)」という。
ヨーロッパ各国の連帯を星で表している。
レイモンが若いころ考案した旗は、青地に黄色星が1つだった。
1955 年に欧州評議会事務局から、レイモンの原案を採用して欧州旗を作るという手紙が届いたらしい。
なぜソーセージ屋のレイモンが旗のデザインを考えていたのかというと、レイモンは「汎(はん)ヨーロッパ主義」という思想に傾倒していたからである。(ヨーロッパ全体を一つに統合する、あるいは一体性を高めようとする思想)
話を戦中にもどす。
お上にソーセージ作りを禁止され、大野工場を奪われたレイモンとコウ。2人は函館でひっそりと暮らした。
第二次世界大戦を迎え、終戦を迎えてもレイモンは函館を離れなかった。
やっとソーセージ作りを再開できるころ、レイモンは54歳になっていた。
その後の活躍は知っての通り。
1987年、93歳で函館で亡くなった。
カール・レイモンとはいったい何者なのか?
ここまで読んで、カールレイモンを今まで通り、ただのソーセージのおじさんとして語ることは難しい。
人間の成分は過去と現在だ。レイモンは過去、故郷というものを失ったように見える。
故郷カルルスバードも日本も戦争によって変わってしまった。ページの関係で割愛したが、自身の平和への思想も壊されてしまった。
アイデンティティーを壊された人間というのは、「いま、この時」を幸福にし、将来に向けて動き続けるしかないのである。
それは常に彼を突き動かすソーセージ作りへの情熱だったり、函館での妻との生活だったのかもしれない。
伝統的なソーセージ作りにこだわるレイモンは89歳になるまで弟子を取らなかった。
いま、その名前は商品名として受け継がれているが、レイモンの手で手作りしていた頃とは諸般の理由で異なる点も多いと思う。
毎日ソーセージを作り続けたレイモンの手は大きく、ふっくらとしていたそうだ。未来に生きる僕らは、函館に行ってもその手で作ったソーセージを、残念ながら食べることはできない。