「酪農王国北海道」といわれる北海道。
当然「酪農発祥の地」は北海道なんだろう・・と思ってしまいますが、実は千葉県であります。
1728年、八代将軍吉宗がインド産の白牛(乳牛)3頭を、千葉県安房郡の嶺岡牧で飼育したのが始まりだそうです。
当時は牛から絞った乳を疲労回復の強壮剤や傷薬など、主に薬として使っていたそうです。
そもそも日本には牛肉を食べるとか牛乳を飲むという習慣は一般的にはほとんどなくて、江戸時代には表向きには肉食が禁じられてたんで、それこそ上流階級の一部の人が薬や滋養強壮の目的で食べるってくらいしかありませんでした。
明治時代になり始めると外国人が日本にやってきて、訪問ではなく「居住」する時代になりまして、彼らがやれ肉が喰いたいとか牛乳が飲みたいだの騒ぎ出したおかげで日本にも牛肉食文化や乳製品が浸透したわけです。
今では北海道が日本の牛乳の生産を荷っており、都道府県別でみるとおよそ60%近くを占めています。そうなるまでには紆余曲折がいろいろあったわけで、今では北海道にたくさんいる白黒柄の牛、ホルスタインなんて1頭もいなかったなんて時代なんてのも当然あったわけなんで、今回は北海道の牛乳の歴史をざっくりざっくりではありますがみてみたいと思います。
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「牛乳の搾り方」伝わる。
1855年(安政2)に函館港が開港します。
当時は札幌は野原同然で、経済文化の中心といえば函館です。
そんな函館で、アメリカ領事館の初代領事を務めたのがエリシャ・ライスなる人物。
残念ながら旧アメリカ領事館は現存していませんが、今の函館市立弥生小学校周辺に建っていました。現在の弥生小学校周辺で牝牛2頭の飼育を函館奉行所に願い出たライスは、そこで牛を飼育し、ここで牛乳の搾り方が初めて伝えられたそうです。
ちなみに、エリシャ・ライスの経歴は結構あやしげ・・・。
なぜか「捕鯨船」に乗って突然函館に現れ、「アメリカ政府から日本に派遣されました」という公式の?書簡まで持っていました。
でも日本側はそんな話は聞いておらず、日米和親条約では箱館には領事を置く規定はなかったのです・・・
混乱した函館側はあわてて照会しますが、駐日総領事ハリスでさえも、「ライスなんてやつ知らんしアメリカからもそんなこと聞いてない」と言われてしまいます。
例の書簡を善良的に解釈することによって、まあ帰れっていうのもかどが立ちそうだし仕事をしてもらっていいんじゃないですかねーみたいな極めて日本的な荒波たてず的な流れで1857年、函館アメリカ領事館の領事となったわけです。
ライスは他にもパンやたばこの製造方法、ヒツジの飼育方法を伝えていますが、突然出かけて帰ってこなかったり立ち入り禁止のとこに行きたいっていったり、遊び人だったりって一面もあり、実はただの捕鯨船の船員で書簡は奪われたものだったのだッ!みたいな創作もできそうな謎多き人物であります。
「ホルスタイン」広まる。
ライスが領事になってから10年あまりのうちに、海外との交易はますます盛んになり、同時にロシアの脅威が迫ってきました。
ロシアの南下を憂いた政府としては、一刻も早く北海道を開拓してしまう必要がありました。
そんな中、黒田清隆(開拓使長官)に頼まれてアメリカから北海道にやってきたのがホーレス・ケプロンです。
彼はアメリカで農務局長を務めていましたが、黒田のお願いで1871年に開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問、いわば外国人の最高顧問に就任しました。
▲大通公園にいるケプロンさん
彼の功績はいろいろありますが、「札幌農学校」(北海道大学の前身)の創立も彼の御膳立てのおかげであります。札幌農学校といえば指導に当たったクラーク先生が有名ですが、ケプロンは創設にかかわった一人です。
ケプロンは滞在中、北海道が寒すぎて米作りに(当時は)向いていなかったことを考慮し、麦や酪農を盛んにしようと色んなアドバイスをしていました。今サッポロビールがあるのも彼の功績の一つ。
「札幌農学校」は農業や酪農を専門的に教える学校で、おもにアメリカから最新鋭の技術が持ってこられました。
いまもその名残を「札幌農学校第2農場」に見ることができます。
(北海道大学の敷地内に残されていて入場は無料です)
▲産室追込所耕馬舎(1877年築)と牝牛舎(1909年築)
▲牛舎内部(牛を繋いでおく場所と餌ばこ)
▲バターやチーズをつくった製乳所(1911年築)
当時は実際にホルスタイン牛が飼育されていました。
日本の地方都市にホルスタイン牛が外国から輸入されはじめたのは1890年頃のようです。その一つに、この札幌農学校第2農場も含まれていました。
最初に農学校にやってきたのはオスメスあわせてたった5頭でしたが、100年以上にわたり5頭の子孫は全国各地に広まり、いまもなお血統が続いているそうです。
特に5頭のうち漣号(和名)、千鳥号の子孫は北海道内外にいるらしいので、もしかしたらその牛乳を飲んでるかも知れません・・・
ちょっと話は前後しますが、1873年バターが七飯試験場で試作され、開拓使が購入した乳牛と共に、おなじみのエドウィン・ダンが来日して真駒内牧牛場でバターとチーズの造り方を伝えています。彼と一緒に来た牛がホルスタインかジャージーかまではわかりませんでしたが。
「牛の飼い方」広まる。
札幌農学校は、クラークが思い描いた理想の酪農郷、つまり「王妃の村里」のような感じですが、実際にここで学び巣立っていった生徒たちは最新の知識を引っ提げて故郷に戻り、まだ未知だった酪農で生活しようとしていきます。
八雲町にあった「徳川農場」の初代農場長も札幌農学校を卒業したひとりです。
八雲町は道内でも早くに酪農に着手した地域で、「北海道酪農発祥の地」とも呼ばれています。
特筆すべきなのは八雲町に開拓に入ってきた人々が旧尾張藩士族だという点です。
明治維新によってサムライは不要のものとなり、全国のサムライのリストラが始まります。サムライたちは藩主からお給料をもらって働いていたのですが、藩自体が無くなってしまったのが明治維新。
最初の頃は藩主が禄(給料)を出す代わりに明治政府が給料を与えていました(それでも藩主からもらってた時の半分くらいらしい)が、1870年には「武士の身分を捨てて農民になったら禄高の3年分一括で払いますよ」とか「北海道やカラフトに移住したら7年分一括払いします(だから身分捨てろ)」みたいな嫌な雰囲気になります。
1876年にはついに、教科書でも習った「秩禄処分」が出され、何年か分の俸禄がもらえる代わりに秩禄が廃止されてしまい、士族たちは生活する術を奪われました。
そんなわけで、全く商売や農業をしたことの無い士族たちも職を得なければならなくなったわけです。
八雲町に来た旧尾張藩主たちもそういう事情で何回かにわけて北海道にやってきました。
北海道の土地を旧尾張藩主・徳川慶勝が150 万坪を払い下げ、1878~1888年にかけておよそ4,000人が移住しました。
八雲町に数団に分かれてきたうち、第一団の人々が真っ先に行ったのが「村の墓作り」だそうで、故郷を捨ててここで死ぬのだッ!みたいな決意の凄みが感じられます。
八雲町は今でも酪農が盛んで、道南随一の酪農地帯です。
明治後期になると牛乳を飲むという文化が日本にも定着し、東京ではミルクホールなるお店が流行ります。これは牛乳とパンなどの軽食がとれる店で、学生や若いサラリーマンが利用していた様です。意外なのは東京都内で消費される牛乳はほとんど東京産のものだったらしく、当時は東京にも酪農家がたくさんいたのかもしれません。
東京外で生産された牛乳は、東京に着くまでに劣化してしまうので、牛乳用ではなく加工用に使われていたみたいです。
大正時代には本格的に北海道に酪農が広がり、「牛が足りない」という問題が発生。
最初にご紹介した千葉県安房郡から、昭和8年頃まで毎年100頭余りが北海道にやってきました。「牛のお嫁入り」なんて呼ばれたそうです
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北海道だけではなく、いろんな人や地域の期待や不安が入り混じって北海道は酪農大国と相成ったわけであります。
▲最近美味しかったのは常温保存できるこちらの牛乳。瓶の牛乳みたいな濃厚なあじでびっくりした
働き手や価格、輸入緩和の問題など昔と違った問題がままありますが、僕は日本の、特に北海道の牛乳をこれからもたくさん飲みたいと思います。