羊が頭突きをしてケンカしている。
ケンカをしているのは右の2頭だけかと思ったら、左側の3頭もケンカをしている。
と思ったら場外乱入だ!うしろー!!
羊って温厚な動物ってイメージなんだけど。僕の目の前では羊デスマッチが繰り広げられ、角もないくせに頭突きをするもんだからゴチンゴチンと痛そうな音が響き渡った。
死闘が繰り広げられているのは、この「羊さんのお家」の中だ。
普段は牧草地に放たれている羊たちは、今日はこのお家の中に入っていた。
それはたぶん、今日が雨だから。
雨だし暑いし狭いし、まあ羊だってイライラするよね。
普段はこの広いとこに羊たちはいるらしい。そう僕は羊ケ丘展望台に来ているんだよ。
もちろんクラークさんもいたよ。Boys,be ambitious!
別アングルから・・
展望台の眺めはとても良かった。ここに羊でもいたら、そりゃあ北海道って感じだろうね。
入場料として500円ちょっと払いました。お金とるんだね・・。
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もともと羊ケ丘展望台は、戦前に作られた「月寒種羊場」が始まり。月寒(つきさむ)って言うのは札幌にある地名で、むかしは「つきさっぷ」とも呼ばれていました。
それまで日本では、羊を飼う文化は希薄でした。しかし北海道は外国から新しい農業や酪農技術をどんどん取り入れて開拓しましょうって勢いだったので、月寒、滝川の2か所を中心に羊の飼育に取り組みます。
大正時代になると羊の毛が役に立つぞってことで、北海道でたくさん羊をふやしましょう運動が盛んになりました。
背景には第一次世界大戦、その後の満州事変の勃発など、外国からの羊毛調達が難しくなり、国内で生産を賄わなくならればなくなったから・・という事情があったのですが。
ところが、第二次世界大戦の敗戦で、国の管理していた土地は縮小されます。種羊場も、もちろん廃止。外国との国交が回復し、大量の安い羊毛が輸入できるようになったことで、羊文化は衰退していきます。
その羊文化の名残りが、北海道のジンギスカンでもあるわけです。
この羊ケ丘展望台は「月寒種羊場」が廃止された後、戦後には北海道農業試験場となりますが、「羊がいる北海道っぽい風景を見たい」という観光客の増加に歯止めがかからず、結局、農業試験場の一部を観光地として開放することで現在に至っているそうです。
農業試験場は現在「北海道農業研究センター」という機関になっていますが、その敷地の一部に我々はお邪魔しているって感じです。
羊ケ丘展望台は、僕も初めてです。何があるんでしょうか。
右が「さっぽろ雪まつり資料館」左のクラークチャペルは閉鎖中。
資料館の中
1950年に始まった「さっぽろ雪まつり」に関する歴代の雪像やポスターの展示です。
雪まつりに特に思い入れがないので、あまり興味はありませんでした。
昔の羊ケ丘。昭和天皇も羊をご覧になったのだ。
続いて「オーストリア館」
札幌冬季オリンピックで使用されたオーストリア館を移設したもの。中は普通の食堂になっていて、当時の面影は無い。
なんか昔のスキー場のロッジみたいな。
唯一挑戦したい感じの「羊乳アイス」は売り切れ。
謎の占い屋と写真館。
お土産屋さんも併設。
人気なのは「ジンギスカンのジンくん」。
キャラ設定として、「羊ケ丘展望台出身」という事になっている。
2014年ゆるキャラグランプリ北海道1位
ジンくんの仲間もいる。
ジンくんはとてもかわいい。それだけに「~なの」という語尾が歯がゆい・・。
羊ケ丘展望台のある豊平区には、区のキャラクター「めーたん」という羊もいる。
めーたんの出身地も羊ヶ丘展望台の周辺らしい。
同じ羊キャラなのに、めーたんは存在感が薄くてちょっとかわいそうだ。
特におもしろそうなものがないので外にでる。雨。
ラベンダーが咲いてた。ラベンダーの無料刈り取り体験も人気のイベントらしい。
僕はあまりラベンダーの香りが好きじゃない。
日本ハムファイターズの記念プレート。
野球がとっても好きなわけではないので特に興味はわかず。
クラークの横に裕次郎の首・・いや銅像。
こわいんですけど。
石原裕次郎の名曲「恋の町札幌」を記念して作られた歌碑。
歌詞に出てくるのは時計台だよね。なぜ羊ケ丘に建てたんだろう・・・
景色が良かったというだけで、ことさら雨の日の羊ケ丘には何もない。
広い土地を利用して時々イベントが開かれているようだから、それに合わせていくのがベストかもしれない。
雨の日でもクラークの前には観光客が絶えない。みんな同じポーズで写真を撮る。
ほとんどがアジア系の観光客だけど、彼らはクラークを知っているんだろうか。
ウィリアム・スミス・クラークはこちらでいう「お雇い外国人」として1876年に札幌農学校教頭として来日した。わずか8カ月の滞在だったけど、彼自身とても優秀だったし、生徒が受けた影響は大きかったらしい。
有名なセリフ「Boys,be ambitious」(少年よ大志を抱け)には嘘かまことか続きがあるらしく、「Boys,be ambitious like this old man」、お前らもわしみたいに野心的であれ。とおっしゃって札幌を去ったらしい。
野心的なクラーク先生は帰国後にマサチューセッツ農科大学を辞めて会社を設立。しかしその会社は倒産し、自身は裁判に巻き込まれた挙句に病に倒れ、59歳の若さで亡くなった。
死に際して、札幌で過ごした8カ月が一番楽しかった。みたいなことを言ったとか言わないとか。その札幌の地に150年たった今でも、自身の銅像が立ち、人が集まるのがせめてもの救いかな。
見晴らしはよかったよ。