「歴史上の人物」は多く語られても
「歴史上の人物の奥さん」は、多く語られない。
歴史はいつだって、教科書に載らない普通の人の人生を見た方が時代背景が見えてくるんですけど、もったいない話ですね。
日本が世界にオープンでは無かった時代に、外国人と結婚した人たちがいます。
当時の「国際結婚」は、現代よりもハードルがめちゃ高い。
それはまさに、人生そのものが大冒険になったようなもの・・。
外国語というそびえ立つ山脈を超え、無理解という荒波を泳ぎ、世間の好奇の目というモンスターの襲撃に勝たなくてはならないのだから。
日本で初めて正式に国際結婚をしたのは1893年のクーデンホフ光子といわれているけど、それより10年以上前にイギリスの地震学者ジョン・ミルンと結婚した函館出身の堀川トネの生涯をたどってみましょう。
堀川 トネ
トネは1860年函館うまれ。
お雇い外国人のジョン・ミルンと結婚。
▼ジョン・ミルン
夫のジョン・ミルンっていうのは有名な地震学者で、日本の地震学の基礎を作った人。
「日本地震学会」を作った人でもある。
日本に来たのは1876年。函館や東京帝国大学で活躍した。
イギリスではあまり起きない「地震」というものを日本で実際に経験し、地震の仕組みに初めて科学的な目を向けた。
トネ、お寺の娘だけど英語が話せる
トネは函館の願乗寺というお寺の長女として誕生。
このお寺は「本願寺函館別院」という名前で今も函館に現存している。
当時の写真を見ると、でかい寺で外観もハイカラ、地元では結構有力だったと思われる。
この寺を開いたのは堀川乗経(つまりトネのお父さん)だが、乗経は55歳という若さで亡くなり、残念ながらトネが嫁いだ姿を見ていない。
函館の街にはお雇い外国人が結構いて、なかでも長年日本で暮らしていたトーマス・ブレーキストン※は、堀川家と仲が良かった。
トネは幼いころからブレーキストンに英語を教わって育ちます。
※当ブログでもおなじみの鳥類学者。あとでまた出ます。
理解のない人達との闘い
このころの日本はというと、お雇い外国人を大量に雇い入れたり、日本人を海外へ留学させたりってことを頻繁にしてました。なんでかっていうと外国の技術を学んで追いつけ追い越せ!北海道の開拓を早く進めないとロシアに取られるかもしれない!みたいな危機感があったから。
そういうわけで、東京に「開拓使仮学校」というのが作られます。
ようは将来の官僚を育てたり、開拓に必要な技術を学ぶための学校ですね。
ちなみに最初は東京に造られて、数年後札幌に移転、のちの北海道大学になります。
英語の楽しさに目覚めたトネは、ブレーキストンの勧めもあって「開拓使仮学校」女学校へ入学しました。
北海道からはたった6人しか選ばれないという精鋭の中の一人です。
この時、トネはたったの12歳。
当時の12歳だとしてもまだ甘えたい年頃だけど、ひとりで東京に向かいます。
女学校の生活について多くを語る資料は少ないけど、どうやら開拓使仮学校は規律の多い寄宿舎生活、トネの様な平民出身の生徒は少なく、ほとんどが東京出身の生徒でしかも官僚の娘ばっかり・・・みたいな結構きつい感じだったみたいです。
今では想像できないくらい身分格差ってものが当時はあったので、トネは生徒の中で「名字がない」という理由で笑われてしまいます。日本人が身分に関係なく名字を名乗ることになったのはトネの入学前後の事で、この時トネの実家ではまだ名字を名乗っていませんでした。
冒頭で登場したトネのお父さん、堀川乗経さんは、生活用水に困っていた住民のために川の掘削工事をおこなった業績があり、そこから「堀川」姓になっていますが、トネ入学の際はまだ名乗っていなかったようです。
平民出身、田舎出身、おとなしい、といったトネは格好のからかいの対象になりました。
幼いころから本物の英語に触れ、実力は他の生徒よりあったはずだから相当悔しかったはず。
トネは将来英語の塾を開きたいという夢があり、その夢を追って東京まで来たので、自分の夢のためにお金を工面してくれた両親に対しても、いまさら辛いから帰りたいとは言いにくかったと思われます。当時、実家にあてた手紙には楽しい生活を装って書いていたってのが悲しいです。
そんな精神的にきつい学校生活が順調に進むはずもなく、トネは突然退学を命じられます。
理由は「生涯治らない脳の病気で精神錯乱に陥るため」
授業中に集中できなかったり、学校の札幌移転の祝賀会中に倒れてしまうアクシデントがあったそうです。
今の見方だと、脳の病気というよりは完全にメンタルが原因だと思います。
今ではアウトですが、当時は心身の不調で退学にされるというのは実際にありました。
今の世の中ならしかるべきケアを受けて復帰することもできましたが、当時はそんなものありません。トネは北海道に戻らざるを得なくなりました。
メンタルが回復すれば調子も戻ったのでしょうが、なにせ当時の診断は「脳」だったので、きっとトネは、自分はもう一生治らない脳の病気なんだ・・。と思いこんで、失意の中たったひとりで北海道へ帰ったのでしょう。今よりはるかに長い道中を。
函館にもどったトネを待ち受けていたのは、周囲の人からの冷たい視線。
「脳の病気がうつる」という何の根拠もないデマが街中に広まり、トネは苦しむことになります。
なにより英語が好きで東京の学校に行き、家族の期待もあったのに、最後まで学ぶことができなかった。というのが辛かったのではないでしょうか。
慣習との闘い
函館に戻って数年、トネに「士族出身で開拓使出仕」つまり、今で言う「そこそこ良い家出身の公務員」の青年との縁談が持ち上がります。
これをトネは断ります。
すると周囲の人々の風当たりは一層強くなりました・・・
今の感覚でいうと何で?って感じですが、当時縁談を断るっているのはけっこう気まずい感じで、申し込まれたら受けるの当然みたいな風潮があったのです。
縁談には家、仲介者のメンツなどが凝縮されており、それを裏切るダメージを考えたら、忖度して、建前で、事なかれ主義で、OKしとくのがいいだろみたいな、日本の悪いところですね‥。
それでまた心無い人々が「脳の病気だから縁談を断ったんだ」みたいな噂を立てやがったりしました。
そんな中で、縁談をきちんと断ったトネも偉いのですが、それを許可した父・乗経さんも近代的な思想を持っていたみたいです。わりと世間の慣習と個人の自由を切り離して考えられる人だったのかもしれないですね。
しかし、そんな理解ある乗経父さんが急死。
周囲からの冷たい目、思い通りにならない体調、理解者の死と、トネの人生は下り坂へ。
ブレーキストンと父さん頑張る
失意の中にあったトネに、トーマス・ブレーキストンはジョン・ミルンを紹介します。
そのきっかけが、父・乗経さんの墓参りに行ったとき、偶然ミルンを連れたブレーキストンに会ったから。ってのが、父さん草葉の陰から見守ってるな・・・
トネとミルンは年に数回しか会えなかったけど、手紙のやりとりをたくさんしてていい感じになりました。
トネは、ミルンに不治の持病(たぶん脳の病気だと思ってるやつ)を患ってることや、過去に世間から非難されたいろんなことを告白します。
当時は交際相手や配偶者に、自分の悩みや苦しみを語るのは恥ずかしい、という風潮でしたが、そのあたりを共有して共感しようとしてるっていうのもいいですね。
ミルンは『ほんとの勉強っていうのは、君が経験した挫折や屈辱をもとに、もっと広い視野で物事を見ることだ。私は地震と火山の勉強に夢中だよ。君も英語の勉強がしたいっていってたよね?二人で一緒にそんな生活をしよう』的なかっこいいプロポーズでトネの思いにこたえます。
ここまで一見順調なようにも思えまずが、外国人との交際は当時の普通の女性にとっては大きなリスクでした。なぜなら、一部の女性は金銭のために外国人と体の付き合いをしたり、もし恋愛で付き合ったとしても、当時の常識では国際結婚なんてできなかったので、女性だけが日本に取り残され、「外国人と親しくしていた」という理由だけで周囲から冷たい扱いをされたからです。
当時は国際結婚自体もゼロといっていいほどだったので、正式な結婚届は「宗教上の違い」を理由に受理されませんでした。それでもふたりの意志は固く、事実婚とし、トネは「トネ・ミルン」を名乗ることになります。
正式な結婚届はそれから14年後にやっと出すことができました(だから日本初の国際結婚ではないのです)
トネとミルンは東京で挙式し、イギリスへ。
南イングランドのワイト島シャイドに住居を構え、ミルンは地震の研究を継続。
トネは次々に訪問する記者や研究者の対応に追われる生活をしました。
▼イギリス時代のトネ。
トネの写真は当時としては珍しく多く残されています。
というのもミルンと、日本から連れてきた青年助手は写真が趣味になり、ミルンは「ワイト島カメラクラブ」の会長になったそうな。どうりでトネの写真も多いわけです。
1913年、ミルンが63歳で死去。
トネはそのままイギリスに住み続けたけど、日本人の助手も病気のため帰国してしまい一人ぼっちになりました。
また、持病の悪化、戦争で世界情勢が不安定になった影響もあり、1919年日本に帰国。
その6年後、1925年、トネは函館湯の川通りの自宅で亡くなります。
トネは帰国時にミルンの遺骨を持ってきていたので、二人はいま函館の船見町の墓地で一緒に眠っています。
*
トネは大きな寺に生まれたので、きっと平凡にくらしても苦労しなかったでしょう。そこそこ良い稼ぎの男と結婚して子供に囲まれる人生もあったと思います。
でも自分の理解者であるミルン、情熱を傾けた英語、それがもし無かったトネの人生って幸せだったのか・・。
トネの幸せは、理解の無い周囲の人間や古い慣習と「戦って」得たものです。
そうしないと、彼女の人生は平凡な、死んだも同然の人生だったと思います。
生前トネは「ミルンによって生き返ることができた」という言葉を残してて、
そういう言葉を使うってことは、やっぱり一度死んでたわけで、「生き返った」という言葉に彼女の人生の苦味みたいなものを感じます。
参考文献