江別市にある屯田兵第二中隊本部を見てきました。
といっても「屯田兵」はもう存在しないので、今は「江別市屯田資料館」という建物になっています。
その前に屯田兵とはなんぞや?という説明をしておきますと、明治時代の兵隊さんの一種です。
平和な時は北海道の開墾や農業をして、有事の時は兵士として戦場に行く義務がありました。
兵隊兼開拓者みたいな感じですね。北海道はそのころ原始林、ジャングル状態で、警備が手薄でした。万一ロシアに攻め込まれて北海道が奪われたら大変ってことで彼らが置かれたんですね。当時、時代は明治に変わって、武士というものが必要なくなりましたので、没落した下級武士を助けるという目的もありました。
屯田兵の住宅はそれなりに残されているんですけど、本部が残ってるのは珍しいんです。
僕の記憶が正しければ、ここを含めて道内に2か所しかなかったはず。
天井がやたら高いですね。
あ、誰ですか。
なんだ中隊長じゃないですか。
中隊長、なんかパンフレットの頃と顔とかポーズとか変わってません?
天井があって窓付きってだけで当時は豪華だったみたいです。偉い人が使う建物の象徴みたいな感じですね。
建物の作り方は札幌の時計台と同じ「バルーンフレーム構造」です。
1800年頃アメリカで生まれた構法で、木材と釘さえあれば家ができてしまう合理的な建て方でした。熟練の大工技術とかいらないです。建物の柱だけ先に作って、床やらなんやらは後から一気につけるんだそうですよ。
そういえばここの倉庫もそんな作り方だったかも。
当時のガラスが残っている貴重な窓。
ちょっと気泡が入ってますね。当時はガラスって手漉きで作ったんですって。
日本では作れなかったので、全部輸入品です。
ドアに対してドアノブの位置がちょっとおかしいです。当時の日本人は背が低かったので、ドアノブを下のほうにつけたんだって。
こんなかんじで、偉い軍人は上記の立派なアメリカ式の建物で仕事をしてました。
では、肝心の屯田兵はどんなお家に住んでいたんでしょう。
こんな感じの家だったそうです。
たぶんめっちゃ寒かったと思います。
8年間で、江別市内に445戸の屯田兵が家族を連れて移住しました。九州・四国、東北から来た人が多かったみたいです。
「こんなウチ寒すぎるよ!」といったのが、あのクラーク先生。向かって右がクラーク先生が建てさせたアメリカ式の暖かい家。建て方は中隊本部と同じ。
これじゃ寒すぎるよ!と思ったのはアメリカ人だけじゃないらしく、ロシアを視察した黒田清隆が提案したのが向かって左のコサック兵風ログハウス。
が、どちらも建てるのに金がかかりすぎるという事で普及しませんでした。
何棟かは建てられたので、そこに住んだ屯田兵はちょっと肩身が狭かったろうと思います。
平和な時代が続いたわけでは無いので、屯田兵さんたちは時に戦地にも行きました。
日露戦争で戦死した屯田兵を人形として供養しているお寺も道内にあります。
今でも江別では「3丁目通り」とか「二番通り」という碁盤の目の呼び方があるんですけど、それは全部屯田兵が開墾した道路をそのまま使っています。
というか当時彼らが住んでいた宅地の跡に、今の江別市民の住宅街が出来上がっているわけです。
屯田兵が手を入れる前はもうジャングルだったわけで、巨大なヒグマが闊歩し、巨木が立ち並ぶ原始林だったわけです。大変だったとしか言いようがないですね。
現在の2番通り。
今はこんな風になってますけど、昔はこの両側に屯田兵の住宅があったんでしょうね。どんだけ働いたか想像もつかないです。
別に江別に住んだことないですけど・・なんか開墾してくれてありがとうございます。って気持ちでいっぱい。