どさんこカメラ

北海道各地で撮った写真を掲載します。

新琴似屯田兵中隊本部で先人に思いを馳せたりする。

新琴似にある屯田兵中隊本部にやってまいりました。

 

屯田兵(とんでんへい)というのは明治時代の北海道を開拓するために全国各地から集められた、

「開拓民兼兵隊」みたいなものです。

で、一応軍隊でありますからその中隊を指揮管理していたのがこの中隊本部。

屯田兵たちは毎朝この建物の前に集まって一日を始めていたわけです。

今は資料館になっております。

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現存する中隊本部は数少ないです。

江別市にも1棟保存されています(屯田兵第二中隊本部に潜入しました。)が、それと比較するとわりと新しい木材が使われてたりするので見劣りするかも・・。

 

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屯田兵とは?

屯田兵とは、平和な時には土地を開拓して、有事の際は戦争に行く。みたいな感じの兵隊さんです。

なぜわざわざ極寒の北海道でそんな暮らしをしていたのでしょう。

江戸時代まで、お侍さんたちは戦闘員であるかわりにお給料をもらって暮らしておりました。ところが、明治維新によって新政府が立ち上がるとお侍は不要になってしまいます。新政府側にとっては金食い虫的な目障りな存在だったので「侍の特権」みたいなものがだんだんはく奪されていきます。

「刀を持つな(廃刀令)」とか「給与はもう払いませんから(秩禄処分)」とかはわかりやすい例ではないでしょうか。

で、この人たちは武士という呼び方もはく奪されて「士族」という分類にされたんですけど、生活が立ちいかなくなって次々に貧困に陥る人多数。

それはやばいよねという事で、西郷隆盛が「士族が困窮してるから北の方の警備を任せる仕事をさせようよ」的なことを言い始めます。

西郷さんは権力闘争に負けて表舞台から消えましたが、彼の意志を継いだのがこのおじさん

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開拓長官の黒田清隆です。

「ロシアとか日本に来たらやばいし、士族を北海道エリアの警備にあてさせて、開拓も一緒にやったら両得でしょ」みたいな進言をして、屯田兵制度がめでたく始まったわけです(1874年)。

 

屯田兵はどこから来たか

地域によって違うんですが、この中隊本部では85%が九州出身者だったそうです。

当時は飛行機とか新幹線とか無いのでどうやって北海道に行くかっていうと、やはり早いのは航路になるのですがその旅程がはんぱない感じ↓

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例えば5月12日に兵庫県を出た一団は14日間かけて琴似についております。

荒れ狂う海で感じる、後戻りできない不安や新天地への不安・・・

考えただけで疲れますね。

 

新琴似で屯田兵になった人たちは、福岡、熊本、佐賀といった温暖な地域出身が多かったそうです。彼らにとっては耐え難い寒さだったでしょう。

さらに明治時代の札幌は現在の札幌より3℃程気温が低かったそうです。

 

で、さきほど困窮した士族の救済と書きましたが、後になって士族とか身分に関係なく屯田兵を募集することになりました。

下の赤字は「士族屯田」、青字は「平民屯田」が置かれた場所。

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現在地は矢印部分です。

北海道に来たのは困窮した人のほかにも、「新天地で成功したい!!」とか「とりあえず土地をもらってのし上がる!!」みたいな野望に燃えた人たちも多数おりました。

ちなみに屯田兵になると、土地と家屋、最低限の生活用品が支給されます。

 

 

 

屯田兵のいちにち

①朝4時にラッパの音で起床(冬は朝5時)

 

②中隊本部前に集合し、中隊長から訓示を受けたり今日の作業説明を受けたりする。

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ひとりにつき四千坪の土地が与えられていたので、中隊本部から遠くに住んでいる人は集合までめっちゃ時間がかかって大変だったらしい。

四千坪の土地といっても未開拓のジャングルであるから、自分の土地の中で自分の家を見つけるのも一苦労だったそうだ・・。

 

 

③屯田兵たちは昼休みまで訓練に明け暮れるわけですが、その間、彼の奥さんや家族は農作業をしております。

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家族単位で移住する人が多かったのですが、家族だけ働かないわけがない。農作業や伐採作業などにいそしんでおります。

伐採といっても原始林ですから、男も女も関係なく大木に立ち向かっていたことでしょう。時々屯田村をヒグマが襲ったりして、ヒグマに立ち向かわなければならないことも・・

 

④お昼休み(1時間)

白米と麦が半々のご飯(時々アワとかヒエ)

おかずは大根とかニンジン・・

 

 

 

⑤午後6時終業

真冬でもこの行程は変わらなかったそうです。たまったもんじゃないですね‥

 

 ▼日露戦争時の記念章。

有事の際は戦争に行かなくてはなりませんよ。f:id:tamayoshi:20181125121305j:plain

 

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北海道も寒さ厳しい季節になってきまして、ジャケットにセーター、ユニクロのヒートテックを着込んで見学しました。暖房とか無くてすごく寒かった。

でもここに住んでた人たちは着るものも薄っすい木綿の服だったろうなとか思ったり。

 

で自然条件が厳しかったり、作物は全然実らないし、ってことで途中で逃げ出したりいなくなったりした人も多かったそうです。そういった状況の中で鍬を振るい続けた人達は、自分が生きてるうちに成果は出ないという事を織り込み済みで毎日働いていたんじゃないかなあと思います(屯田兵に限りませんが)。結果100年後の土地は肥沃な農地となり町ができ、僕たちは不自由なく過ごしております。