真駒内にあるエドウィン・ダン記念館にやってまいりました。
もともとは「牧牛場事務所」として使われていた建物で、明治13年築。
こじんまりしたかわいらしい洋館。ちょっとしたテラスもあっておされ。
無料で見学できます。
ご覧のとおり、館内は「油絵と解説文」という激シブな構成となっておりますので、解説文をすっ飛ばせば5分で見学終了してしまいます。
そもそもエドウィン・ダンって誰?っていう話になると思うんですけど、
まずはこちらの油画をご覧くださいよ。
これ何をやってるかっていうと馬の金玉をとっております。せん馬、いわゆる去勢ですね。
家畜の去勢は目新しい技術ではなく、古くはメソポタミア文明まで記録はさかのぼるそうです。西洋文明や遊牧民族においても、気性の荒い馬を扱いやすくするために去勢するのは一般的でした。
ところが日本にはそういう習慣はありません。
当時の日本は「暴れ馬を乗りこなして一人前」みたいな雰囲気があったらしく、去勢して温和な性格の遺伝子をのこそうとか、扱いやすくしようとかいう考えも技術もなかったようです。
当時の日本を訪れた外国人は、日本馬の気性の荒さに驚いたそうですよ。
というわけで、エドウィン・ダンさんは畜産・家畜、獣医の技術を伝えに日本に来た方であります。
いわゆる明治期の「お雇い外国人」の一人ですな。
▼このひと
アメリカ・オハイオ生まれであります。
クラークよりも・・・?
「お雇い外国人」っていうのは近代的な技術を教えてもらうために国が雇った外国人ですが、有名なのはクラーク博士なんじゃないでしょうか。
というかクラーク博士しか知られていないのでは・・・
クラークは日本で初めての学士号がとれる教育機関として、「札幌農学校」を開講しました。
めちゃ有名なクラーク先生ですが、日本にいたのは8カ月ちょい・・・
「少年よ大志を抱け!」と言い残し、颯爽と馬にまたがって去って行ったそうな。
(あまり日本が気に入らなかったのかな)
その点、エドウィン・ダンは82歳で亡くなるまでずっと日本で暮らしておりました。
主だった業績はというと、今でもサラブレットの産地として有名な日高地方。
ここを馬産地として成長させたのも彼の功績が大きいです。
▼新冠の牧場の様子(1897)
千頭を超える馬が飼育され、優良馬を輩出した。
あと札幌で初めての疎水(川から水をひく水路)を作った人としても有名で、この時つくった用水路のおかげで、のちの世に米がつくりやすくなったと言われております。(真駒内用水)
それから、ダンはあの「町村家」とも縁が深い。
町村家といっても北海道外の人にはピンとこないかもしれませんが、北海道には「町村牧場」という牧場があります。
牧場だけでなく政治的にも影響力がある一族です。
▼町村牧場の創始者 町村敬貴
エドウィン・ダンの指導のもと、アメリカ式の農場経営を学んだ町村金弥は、ダンから真駒内牧牛場の管理を任されます。
で、そんな近代酪農天国のような環境に生まれたのが長男・敬貴で、海外に渡って酪農技術を学び、いまの町村牧場にまで発展させました。
そういう話をするときりがないのでやめますが、ダンは長く日本にいただけあって、業績をたどると色んな話と結びついておもしろいですな。
▼ダンの家。現在の中央区北2条西3丁目付近。
後ろに見えるのは時計台だそうです。
「多目的室」がいちばんおもしろい
エドウィン・ダン資料館の「多目的室」には写真やアルバムがたくさんあるんですが、失礼な話これが一番面白かったですね。
ダンの奥さん、息子たちに関しては他に出回っていな写真もあって興味深かった。ブログに載せてしまうのも野暮なのでご自身の目でお確かめくださいませ。
当時の国際結婚はかなり難しかったらしく、ダンと妻ツルが結ばれてから入籍までなんと10年もかかったらしい。当時は周りの目が冷ややかだったから、妾だとかなんとか相当な悪口にさらされたそうで、法的に認められるまでの月日を耐え忍んだと思うと不憫ですの。
※ちなみにツルさんは病気で倒れたダンが心配すぎて札幌ー新冠間140kmを馬で15時間で駆けつけたという伝説があります。
その後彼女は幼い娘ヘレンを残し、28歳の若さで病死。国の制度や時代の価値観のせいで、幸せな時間は長くなかったと思います。個人の幸せとは一体なんなのか‥‥
娘のヘレンが父母について記した伝記もあるのでいつか読みたい。
あるお雇い外国人の生涯―ネーイちゃんの見た父エドウィン・ダン (1979年)
- 作者: 高倉新一郎,ヘレン・ダン・スミス,佐藤貢
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
- 発売日: 1979/07
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ダンはのちにヤマと再婚。四男をもうけました。
北海道を離れた後は、石油会社を作ったり三菱会社で働いたり。
東京の青山霊園に眠っております。